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御祭神

お綱掛け神事
紀伊続風土記に花窟(東西六十五年間南北百十間)禁殺生伊弉冊尊陵拝所鳥居村 の北一町ばかり往還の側海辺にあり。石巖壁立高二十七間南に面へり。其正 面に方三間許の壇を作り、玉垣を周らし拝所を設く。日本書紀の一書に云々 (文略)とある是なり(古事記出雲国と伯耆国との境なる比婆山葬るとあるは 誤伝なり)花窟の名、増基法師が紀行「庵主」に始めて見えたり花を似て祭より起れる名なり。下より十間ばかり上に方五尺ばかりの洞あり。村人「御か らうど」といふ。寛文記に三臓法師大般若経を籠めし所といふ。
此事既に増基が「庵主」にも見えて弥陀仏の出現の世にとり出す経なりしよし いへり。是より花窟を般若の窟と称す。皆浮屠氏の妄説なり。

御祭神

祭日毎年二月二日、十月二日両度なり。寛文記に昔の祭日には紅の縄、錦の幡、金銀にて花を作り散らし、火の祭と云ひしとあり。
村人いふ錦の幡は毎年朝廷より献じ給ひしに何れの年にか熊野川洪水にて其幡を積みたる御舟破れしかば祭日に至り俄にせんすべなく縄にて幡の形を作りしとぞ。其後錦の旗の事絶えて縄を用ふ(今花井壮熊野川相須村の辺に絹巻石と云ふあり破船の時錦の幡の流れて其石にかゝりし故にその名ありといふ)今村人の用ふる所は縄を編みて幡三流の形を造り幡の下に種々の花を括り又扇を結びつけて長き縄を以て窟の上より前なる松の樹に高く掛け三流の旗、窟の前に翻る。歌舞はなけれども「以花祭又用鼓吹幡旗祭」といふ故実を存する事めづらしき祭事といふべし。

夫木抄光俊朝臣花祭の詠及久安百首の歌に錦の幡などの事は見えざれども花祭の名古くより世に聞えたる事知るべし。又祭日ならでも、村人等時に花を奉りて祈念するといへり(下略)
「庵主」に卒堵婆の苔に埋もれたるなどありとはれども、今はさる穢れたるものなし。此窟の側七八間を隔て対せる岩あり、高さ四間半是を王子窟といふ。「庵主」に王子の岩屋あり、ただ松のかぎりある山なりとある、是なり。軻遇突智の神霊を祀る。此神伊弉冊尊の御子なれば、王子の窟の名ある。一名聖(ひじり)の窟ともいう「此窟にも拝所ありて玉垣を周らす」とあり。按ずるに伊弉冊尊の御陵は紀記其所載を異にして、今其正否を論断し難しと雖、花窟に於て祖神の祭祀を行ひ来れる事実は極めて古く、遠く、然も其遺風の今日に伝はれるは最も尊重に値すと謂ふべし。花窟は古来社殿の建立なく神社と称して奉祀するに至れるは後世の事と思科せられる。
旧藩主の於ては此の霊地を保護の為に寛文九年九月および元禄八年十一月の四至限界御定書を下附し且つ高礼を建て殺生禁断を令せられたり。

例大祭(三重県無形文化指定 お綱掛け神事)
お綱掛け神事は、有馬の氏子が中心となり、およそ10メートルの三旒の幡形、下部に種々の季節の花々や扇子等を結びつけたものを、日本一長いともいわれる約170メートルの大綱に吊し、大綱の一端を岩窟上45メートル程の高さの御神体に、もう一端を境内南隅の松の御神木にわたす神事です。

御縄綯え作業
10月2日に行われる御綱掛け神事に用いられる御綱の綯え作業が9月25日に花の窟にて行われました。この日は,地元の方々が集まり、午前8時から午後5時半まで作業が行われました。

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